テレビのニュースはこのところ毎日カリフォルニアの電力危機を伝えているけれど、僕の日常生活にはまったく変化なし。
そもそも今冬は暖房を一度も使っていないし、電気コンロを使うときに少し気になる程度だ。
WIDE University, School of Internetの「革新企業の戦略分析」第5回を“受講”する。
今回のゲストスピーカーはITの導入で金型製造に革命を起こしたインクスの山田眞次郎社長。
そういえば、これまで1ヶ月以上かかっていた携帯電話の金型を最短5日で作ってしまうというインクスの業務については、以前NHKスペシャルか何かで見たことがある。
「ニッポンを支えているのは中小製造業だ」というプライドがひしひしと伝わってくる講義だった。
「未来社会への変革〜未来の共同体がもつ可能性」(フランシス・ヘッセルバイン他編/加納明弘訳/フォレスト出版)読了。
農業革命によって生まれた農村社会の共同体は都市化と同時に失われたが、それでも社会的動物である人間は共同体を必要とする。
未来にはどんな形の共同体がありえるのか、というのがこの本のテーマだ。
意外だったのは、あのピーター・F・ドラッカーが50年以上も前に「企業」をあるべき共同体として提唱していたということ。
つまり大企業共同体を私は提唱したのだった。大企業共同体は実現したが、ただ一つの国、日本においてたけだった。しかし、その日本ですら、これが問題の解答や解決ではないことが、すでに明らかになっている。
今でこそ終身雇用や会社人間はイケてないことになっているけれど、確かに企業は高度経済成長を支えた共同体だったのだろう。
なにしろいったん入社すれば退職するまで安心して所属していられたのだから。
このほか、東洋と西洋の経済的共同体の違いや教会、ボランティアといったNPOコミュニティーについても検討されているが、僕が一番興味を持っていたのはインターネットと共同体との関係。
だが、マーガレット・J・ウィートレーとマイロン・ケルナーロジャースはこれに否定的だ。
一見したところ、インターネットは新しい共同体の源泉であるように見える。しかし、インターネット上のグループは共同体の逆説を尊重していない。電子的に結ばれた世界の素晴らしい可能性は、部分的に人々を互いに孤立させる境界づくりに利用されている。
そこではわれわれが個性的であることは求められず、ただ同一性のみが求められる。われわれは会うことも求められず、喜ばしくないことに、お互いの才能が必要である事実も求められない。多様性が嫌になったらコンピュータのスイッチを切ればよいのである。
要するに、インターネットには共同体が成立するために必要な異質な他者との関係がないということだろうか。
う〜む、必ずしもそうじゃないと思うんだけどなぁ。
一方でHot Wiredの創立者でもあるハワード・ラインゴールドはインターネット共同体の可能性に肯定的だ。
しかし、そんな彼でさえ
仮想共同体は、人々の相互の結びつきを取り戻し、健全な民主主義には欠かせない市民社会を再建するのに役立つのだろうか? 結論を出すにはまだ早すぎ、わかっていることは少なすぎる。
と、やや及び腰だ。
この本の原著が出版されたのは1998年だから、それから早くも3年が経ち、インターネットの世界も大きな進展を遂げている。
現在のインターネットを見て彼らはどう考えているのか、ちょっと聞いてみたい気がする。
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